昭和49年05月17日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子から難しゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、吾ながら喜んで、和賀心を祀れ。日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが。みやすう信心をするが良いぞ。」

 信心が段々みやすうなって来る。そこにはおかげの世界もまたみやすうなって来る。気張った物がない、骨が折れない、そう言う意味に於いての信心がみやすうなると言う事が、一番本当のみやすい信心だとこう思います。人から見れば皆さんの様に、朝早くから毎日朝参りをなさる。信心の薄い者やら信心の無い者から見たら、それは大変な修行だ。または、大変な御苦労な事だと云う風に見えるでしょう。
 けれども、信心が愈々血になり肉になりして行く事が楽しゅうなる、有難うなって来ると、なら一つもそれは難しいものではなくて、只楽しい有難いと云う事だけになる。だからそこまでが私は、信心が難しいと言や難しいという子とになるとこう思うのです。昨日は大分支部の御大祭を奉仕させて頂きましたが、何と申しますでしょうかねえ、豪華絢爛とでも申しましょうかねえ、本当に綾部さんの御信心性格がそのままお祭に現われておると言う感じ。
 それが何か今迄は非常にみやすい物ではなくて難しい物、非常にこう気張っておられるもの、そう言う物をお祭に感じたんですけれども、本当に一年一年信心の稽古を積んで行かれておる、昨日当たりのお祭を奉仕させて頂いて思う事は、もう何と言うですか、みやすう出来ておられると云う感じですね。しかも楽しゅう、しかも有難く、勿論是で良いと云う事はありませんでしょうけれども、あれがもっともっとそう云う事になって来なければ、ねばならない。
 まあ昨日は私、もう本当に素晴らしい変人の集まりだなあと思う。二三日前、「信心は変人になれ変人にならんと信心は出来ん」と言う様な御理解を頂きました。「変人とは直い事ぞ」と言う。だから、良い意味に於いての変人なんです。それは信心は薄かったり、無かったりですけれども、とても信心のある者でも敵わんと言う人達が(笑)まあ全国からと言うと(笑)大袈裟ですけれどもね、もうわざわざ鹿児島の果てから、わざわざ昨日のお祭りを拝みに来ておられる方がありました。
 鹿児島の女西郷さんと言う異名があると言われる様な方達、それに昨日はそんな予想もしなかったんですけれども、今東京のお父さんが見えとりますが、東京のお父さんも是非お参りしたいと言うて、お参りしとった。そして綾部さんのお付合いであると同時に、ここにも時折は参って来られると言う、この人は変わっとるなあ、変人だなあ、何とそう言う意味の人が一堂に集まったと云う感じがしました。
 今度綾部さんの居間が今度全部改造になりまして、もうそれこそ檜の香がプンプンする様なお家に新しく御神様を奉斎申し上げてそれはもう本当に、本当にこう言う中で朝晩に祈りに明けて、祈りに明け暮れる様な生活をされた。楽しい事だろうなあと思うですね。もう本当に徹頭徹尾言うなら神様のおかげで、なら去年だって神様のおかげで出来とるんだけども、そこには綾部サミエと言うのがドーンと何時も入って来ておる。そしてまあ言うなら何でしょうかねえ、まあ見栄と言うと言葉が違うかもしれませんけど。
 そう言う物もその、こう肩をいからせた様な感じの物があって、なら、綾部さんの思う様にならない、ああもしたいこうもしたいと言うのが、ああもならないこうもならないと、それがもう愈々こう、何て言うですかねえ、まあいらいらじがじがになっておられるのがお祭りにこう表れておった。完璧、是で良い、決してそうじゃありませんけれども、去年よりも今年の方が盛大なお祭りが奉仕されとるにもかかわらず、大変みやすうお祭りが出来ておられたと言う感じ。
 と云う事は綾部さんの信心が段々みやすい物になって来たからだと思いますね。その第一の一週間位前でしたかお参りした時に、お祭りのもうそれこそお願いは一月も前から、もう天候の事から万事万端の事に、日々御取次を願ってお願いをなさっておられます。それにも拘らず、もうあと一週間位でもう御大祭が近付いてきよると言うのに一っつも気が張らない。いわゆる楽なんだ。「先生これでいいのでしょうか。」と自分で言われる位に楽な風であった。
 もう昨日なんか話を聞きますと店の方達は勿論、秋永先生達、高橋さんですかね、それから青年部の方達が麻生さんとか嘉郎さんなんかが昨日から御用行ってました。御婦人の方達も何人も昨日から御用に行って頂いて居られる。けれども今度のお祭はもう本当に日田支部の御大祭と言う感じで、支部の方達だけではなくて、店員取分け長男の方達の、そのお祭りに対する打ち込み方と言う物が、もう秋永先生が昨日もう本当にほとほと感心したと。もうそれこそ昨夜ほとんど寝ないじゃったそうですが。
 あの広い兎に角あの御神殿なんかのお掃除なんか、もう大体があんなに綺麗にしてあるのをもうそれこそ隅から隅まで、もう息子さんが文男先生の指導の基にでね、もうそれこそ、是以上清められまいと云う位に一生懸命だったと云う話を聞きました。なら当の綾部さんは、それこそ、そう云う自分の手になり足になってくれる、末梢神経に至までの働きがそう云うみやすいと言うかね、楽な心の中に、それがなされて行っておると云う事です。勿論そこにはね神様を信ずると言う物が。
 去年よりも今年強うなられたからだとこう思うです。神様はそうさせて下さるんだと云う事。帰りがけに、国東から娘さん達御夫婦が参っておられましたが、もう親先生もう今日は勝手の方でももうお弁当が八十出来とったそうですが、一つ足らなかっただけだったと言う、それも内々の者が足りなかったのであって足りないと云う事にはならないのだけれども、丁度キッチリで御座いましたと言うてからお礼お届けがあってました。もう兎に角、綾部さんの手になり足になる人達が。
 言うなら綾部さんの末梢神経にいたる迄が、ビリビリ働きがあっておったと云う事なんです。ここに中心にある、なら、綾部さんがです。それこそ我ながら有難い心を頂いたもんだなあと云う事は、我ながら和賀心が祀れておる状態じゃないかと思うですね。はあ御大祭を一生懸命思や思う程、それこそ本当に、のぼせてしもうてから、歯が浮いたり頭が痛うなったりする位に一生懸命、これは一生懸命じゃなくて、どうとかなるたい、ちゅうごたる風なこっちゃ愈々いけませんしねえ。
 一生懸命の思いがあるのにもかかわらず、言うならば心が張らないと云う事です。いわゆる心がみやすいと云う事なんです。昨日高松和子さんが霊祭を終わらせて頂いて、帰らせて頂きました。丁度四時の御祈念の時に、私そのお届けをさせて頂きました時に頂いたのは『「熟した言葉を祈って使え」と頂きました。あの果物が熟しますねあの熟です。「熟した言葉を祈って使え」私はこう言う信心が段々出来て来る様になると、信心がみやすうなって来ると思うです。
 例えて言うと熟した言葉とは、金光教の信心が始まってこの方百十五年ですね。もう使いに使い、古されたと言う言葉が沢山ありますよね。第一「おかげを頂きました」とか、「お繰り合わせを頂きまして」とか「御用にお使い下さい」とか「こうさせて頂きました」とかと言う言葉がありますよね、是はもう愈々熟した言葉です。所が余りに熟した言葉だもんですから、それがもう当たーり前に使われておる。是はまあみやすいと言えばみやすいですけれどもです。
 もういわゆる口癖の様にして使われておる言葉なのです。なら「金光様」と唱える言葉でもやっぱそうなんです。その祈ってその熟した言葉が使えれると云う事です。祈って使う事の中に難しいとは思われません。もう例えば「おかげを頂きまして有難う御座いました」と言う様な言葉なんかは、もうどれ程使うか判りません「おかげ頂きました」と。なら、「どれ程のおかげ頂いとるの」と言われたっちゃ判らない。
 只口癖に「おかげ頂きました」と「こうさせて頂きました」と言う自分がしている。自分がしておる所に難しさがあるのです。昨日も久留米の佐田さんのお届けを聞かせて頂いてからもう日が経てば経つ程、本当に神様の御都合の中に、あの今度の倉庫の火事の事なんか、御守護の中にあったと言う事を、日にちが経つに従って思わなければ、日にちと云うよりも時間が経つに従ってそれを思わしてもらうとこう言うのです。何十箱と云う油が入っとったそうですからね。
 それこそ缶詰めなんかボンボン花火上げる様に弾いたと言うのに、その油にもしあれが点火しとったらどう言う事になっとっただろうかと、すぐ近所には違ったあの、違ったちゅうとあれですけども、部落があるんです。もうああ云う方にも飛火しとったら、もうそれこそどう言うやかましい事になっとったか解らなかった。どんなに考えてもおかしいと言う程しにおかげを受けておった。
 だから佐田さん方は見て居られんけれども、それを見て居ったあの方達が言われるのに、もう本当にあの風があったのにも拘らず、上がスレート瓦だったそうですから、上にボーンとこう吹き上げて打ち上げた。それが収まる時の火の具合と言うものは、丁度この頃後藤さんの所のあの山火事にならんで済んだと言うね、あん時と同じに、只見とる者がびっくりする位にストーッと落ちる様な消え方だったと言うです。
 聞けば聞く程段々それに接して、あれして行けば行く程、本当に神様のお働きの中に是があったんだと言う事で御座いますから、それが判れば判る程、私は楽な、是からの言うならですね、おかげを頂くと言う事でもです、私は気張っちゃ詰らんと思うですね。もう何時から何時までの間には是だけのおかげ頂かにゃと言う様なもんじゃなくてです。もうそれこそ楽に、例えば佐田さんがその火事の前日にお知らせを頂いておられた様にです。今迄は自転車に乗っておった。
 それから言うなら今度は先日から頂きます、人力を捨てて神力に縋るそこに人力は自ずから湧いて来ると言う、自ずから湧いて来ると言う物じゃなからなければ、それはみやすいと言う事じゃないです。一生懸命人力を尽くしとる時には、ああきつかと言うごたる訳でしょうが、もう是以上の事出けんと言う事でしょうが、けれどもその人力をいよいよ捨て切ってです。言わば自転車に乗ると云う事を捨て切ってです、後に付けた一升瓶が割れた所を起点としてです。
 その自転車を捨てて言うならば、まあ自動車にでも乗り換えると云う様な風に申してもいいでしょう、ハンドル持っとるだけで行けれるのですから楽でしょう。いわゆる人力は人力であっても自ずから湧いて来る人力ですからみやすいでしょう。朝参りでも楽しゅうして、嬉しゅうしてと言う事になったらみやすいでしょう。血になり肉になって行く事が有難いと言うのですから、有難い、みやすいでしょう。是から是までは自分がせんならんと言う所にきつさがあるのです。
 限りない神力に言うなら委ね任せた縋る心から湧いて来る、自ずと湧いて来る人力によって、是からまあ例えば佐田さんの場合なら、立直ると言うか、より言うなら焼き太りのおかげと言うか、をそんなに焦らず騒がず、もうそれこそ人力が湧いて来るに従ってです。おかげ頂いて行くと云う事になればいいでしょうが。お互いの信心はちっと難し過ぎとるのじゃないだろうか、それには「熟した言葉を祈って使え」と言う、熟した言葉を持ってはおるのだけれども、その「有難う御座います」とか。
 「おかげを頂きました」とか、「お引き寄せを頂きました」とか「御用させて頂きます」とか、させて頂きましたり、お引き寄せを頂きましたりと言うなら、自分で一っつも頑張っとらんからみやすいでしょう。是が祈って本当にお引き寄せを頂いたんだな、本当に御用させて頂いたんだと云う事になったらみやすうなって来る。でなければ嘘です。同時にね、合楽の信心を皆さんが段々身に付けておいでられるに従って、一つの伴奏とでも申しましょうか、何かそう言うリズムが出て来るんです、調子が。
 どう言う場合であっても。だからそのリズムに乗っての事ですからみやすいです。それを例えば、浪花節なら浪花節が地声を上げちから張り上げとる。なら、そうにきつい事です。けれども、陰の三筋と言う様に、言うならばこう引き出される様に、あの調子に乗ってです。声が出て来る時にそれこそ聞く者をして、語る者をして、もう楽しゅうして、楽しゅうして応えんと言う様にして語るでしょうが、浪花節はね。それでなかったら聞く者をして陶酔すると言った様な芸は生まれて来ませんよね。
 信心させて頂くとその、言うならリズムが解って来る調子が解って来る。天地が奏でて下さるその調子に乗ってのおかげである。だから本当に有難い。昨夜何時位だったでしょうか。東京のお父さんが見えとりましたから、御直会を頂き終わってからあのう骨董屋さんを見たいと言われるので日田の支部の方が連れて行って下さって、二三軒あの二軒程まわりました。そして帰りましたからもう昨夜早くこちらへ帰らせて頂いた。それで中々良い物を見せてもらいました。
 昨日私共はまあ、もう兎に角値段がびっくりする程高いですから、帰って来ましたら、お父さん達の乗っておる車だけ帰って来ませんも。正義さんの車に若先生とお父さんと三人乗っていた。暫くしたら帰って見えた。そして私共が一ぺん通り回ってから、見て回ったその骨董屋さんにまた行っとんなさる。(笑)そしてあの、軸を一本何かえらいこう気に入ったのがあったらしくてそれを買いに行かれたんです。
 だからまた行っとるけん向こうのご主人としてもびっくりされたんでしょう「あのさっきはあなた方のお連れに居られたあの和服を着て居られた方はどう言う方ですか」と言うて尋ねられた「それは合楽の親先生です」「いやああっちが合楽の親先生ですか、私は日田の総代で御座います」ちゅう南九州信徒会の色んな会長とか、色んな役もしておられる。「見かけはまだ六十四、五しか見えませんけども八十歳になります。」と言うて、もう今度は信心話になってですね。
 もうその軸を大変、まあ安くたてやっぱ何万か出されたでしょうけれども、それをわけてもらったと言うて帰って来られ、その話を聞きながらですね、もうその一つの合楽的リズムと言うものをそこに感ずるです。もう親父さん連れて行ったけんで、いらんこと回らんなん、親父さんが言わなければそこにとても私共行きゃせんとこです。しかもその後に於いてです。いやあ本当に冷やかしたり値切ったりせんでよやった(笑)
 と思う位ですね。もう本当に言わばそのお父さん、骨董屋さんのご主人もまあその変わった一行ですからね七、八人行きました。だから中にそのえげつない小切り方とかね、なんかまあ本当に神様がやっぱああ言う風におかげ下さるんだなあと思うんです。是なんかも一つのリズムに乗ってる訳です。帰らせて頂きましたらお風呂入って上がりましたら、家内が何か一生懸命タンス引きでーてから、こう何か捜し物しよるごたるです。「何ばしよるか」って言うたら、「明日は十七日でしょうが明日はあなた、あなた方浪花節聞きに行きなさらんならん日でしょうが」。
 先日から今日久留米でそれこそ日本一的な浪花節さん達が七、八人くらい大挙してやって来る訳です。もう是が繁雄さんあたりの様に好きな人だったら、もう兎に角聞かにゃ居られんと言う人達の顔ぶれなんです。だから招待券を三枚もらって来てありました。繁雄さんが、もう一週間位前でした。所がそれは大衆席なんですねいわゆる、だから高橋さんが丁度一緒に御飯でしたから。
 それじゃああんまりでしょうからと言って公告を見よったら、ほんの少しばかりですけれども、超特別席と言うのがある訳です、だから高橋さんそれをわざわざ買うて来て下さってあった。でそれを私知らなかったですけども、家内が預かってたらしいんです。私はそんなやつ来取る事知らなかった。見もしなかったんです。所がこの高橋さんこうて来て頂いて居るその切符が愈々明日だって言うのに無いもんですから。
 もう一生懸命探しよる訳です。けれども確かに高橋さんからここで受け取って、この引き出しに入れたと言うのに無いちゅうのが、「もうお母さん探すと止めれ」と私が申しました。「折角繁おっちゃまが楽しんであるとやにあなた、無くしたんじゃ」と言うて「いやもうそりゃね、繁雄さんもここで考えなさらなきゃならないな、いつも浪花節を一、二回聞いたことが、私が繁雄さんのお供して行く様な事です。
 私は浪花節はあまり好かんとです。けれども、浪花節をやっぱ聞かせて頂くと、やっぱり浪花節は、浪花節の良か所がある。しかも今度の場合なんかは、もうその皆がどれが日本一かと言われる様な人達ばっかりの顔ぶれなんです。ですから、その浪花節ファンの人ならば、聞かにゃおられん様な人達ばっかりのそれの、しかもその超特別席の券をですよ、家内が無くしとるから責任を感ずる訳です。
 昨夜それでもやっぱ遅まで探しよりましたけど、とうとう探し出さんごたるふうでした。「けれどもよかが、それはね、やっぱり神様があんまり好きなもんが行くんであっちゃいかん。だから、神様がこれは言わばお差し止めになったと俺は思うから探すな」と、以前の私だったら私はやかまし言うて怒るとこでしょう。「どうしてお前がろくそなかけんこう」と、所がね、それを怒らんで済む、「どうしてお前はろくそなこつか」と言わんで済む心が楽でしょうが。
 「一晩かかったちゃ探せ俺はさっちもって明日行かんなんち」言うならですね、ほらきつい事です。けれども、是は一つの私共が何時もリズム聞き続けて居りますから、あっ是は神様が足止めをなさったなとこう思うから、繁雄さんもそれを言うとられる。「ああやっぱり私があんまり好きじゃけんで、神様がやっぱ足止めして頂いたんじゃろう」とこう言うそうなんです、そう言う頂き方が一番楽なんだと言うてお話した事です。
 そげん思て休ませて頂いたらすぐお知らせを頂いた事がね「宗教」と言う字を頂きました。「宗教」ね、沢山の宗教がありますよね。仏教キリスト教金光教、天理教、宗教皆宗教です。所が本当の宗教と云う事はどう云う事かと、なら「宗教とは何ぞや」と例えば言うたら「宗教とは宗教たい」と言う感じでしょう。それではいけませんもんね。「宗教とは何ぞや」と例えば問われたら、宗教とはね、宗教の宗と言う字はウ冠に示すと書いてある。ウ冠に教とは教えると書いてある。
 宇宙の宇を示す、言うなら天地が示すと言う意味なんです。それを教えるのが宗教なんだと、成程金光教の信心は生きた宗教だなあ、取分け合楽での信心は成程生きておるなあと思うです。私が日々皆さんに聞いて頂くのは、天地が示して下さるお話だけをしておるからですよ。いわゆる今の日田の骨董屋に行った事も、例えば今日の浪花節のその切符がですね。それこそどこに誰が隠したか解らないけれども、神様が隠しなさったとしか思われない程しのそのリズムを感じた時にです。
 どうしてかと言う様な難しい物ではなくて、そのリズムに乗って行けれる。神様が「明日は止めておけよ。」と言うて下さる、それが、もう耳の傍で聞こえる思いをするでしょうが、家内を責める事もいらなければ、怒る事もいらん、勿体ない事したなと云う事もない。これが私は神の声であると同時に、天地が私共に示して下さるリズムであると同時に、言葉なのです。だから、この天地のリズムを、聞き続けれれるおかげを頂いた時にです。信心はもう愈々みやすい楽なものになるのです。
 どう言うきつい坂を登ってもです。それこそ声掛けと共に皆一緒に登れば楽に登れる様に、宗教とはウ冠に示す。天地が示して下さる。それを教えるのが宗教だと、そういう言うならば生きた宗教に縁を頂いて、生きた教え生きた働きを頂いて、受けておる皆さんであると云う事をです愈々改めてね、有難いと皆さんが判る所まで信心をなさったらです。信心は愈々みやすいものになって来ると思うですね。
   どうぞ。